2014年8月号(第60巻8号)

〇8月も終わりに近づけば、太陽の威力を見せつけるように強く照りつけていた日差しも、黄金色のタイルが少しずつ剥がれ落ちていくように少しずつ色褪せていく。
気がつけば日が落ちる時間も随分早くなり、夏の疲れを癒すために用意されたような静かな夜に耳を澄ませば、密かに奏でられていた小さな虫の音が、忽ち夜のしじまに取って替わり、不思議とどんどん大きな音になって耳に届き心にまで染みるようである。
〇四季のあるわが国では、早春には蝶、初夏には蛍、盛夏には蝉というように、人々の暮らしのそばに居て、季節の訪れを知らせる小さな使者として愛されている虫たちがいる。
日本には「蛍」が付いた地名が多くあるが、これは蛍の多産地であったことに由来するものだろうか。古来より各地で、蛍を捕ったり眺めたりする「蛍狩り」の行事が盛んに行われていた。しかし、都市をはじめとして次第に生息地がなくなっていったことで、明治時代以降には、多産地で蛍を捕獲して街頭で売る商売が出現したそうである。
平安時代には、京都の嵯峨野で鈴虫や松虫など秋に鳴く虫を捕まえて籠に入れる「虫狩り」が行われ、これを宮中に運び入れてその音を楽しむ「虫聞き」の行事が行われていた。また、江戸市中にも虫の名所が多くあったことで、庶民の間でも虫聞きは盛んに行われていた。寛政年間には、鳴く虫の人工飼育が成功し、金魚売りなどと同じく、屋形に虫籠を重ねて売り歩く虫屋商売も繁盛していたようである。
近年、子供の宿題の題材としてカブトムシを売ったところ大当たりしたという話があり、森林が減ったせいでカブトムシも珍しくなり、とうとう虫を売る商売も出てきたかと思っていたところ、古くから虫を売る商売があったことに驚かされた。
〇一方で、人々の風雅な趣味をよそに、季節ごとに生活に害を及ぼす衛生害虫の存在がある。明治時代になるまでは害虫駆除の方策がほとんどなかったというが、古くは、稲に害を及ぼす害虫駆除として、虫の霊の依代(よりしろ)となった藁人形を掲げ、これを中心に松明を掲げて列を作り、鉦や太鼓で囃しながら田を練り歩き、最後に藁人形を海や川に流す「虫送り」という行事が行われていたそうである。この行事は「実盛(さねもり)送り」ともいわれ、昔、斎藤別当実盛という男が稲の切り株に躓いて倒れた隙に打たれたことから、その怨念が虫になって害を及ぼすものとして、藁人形を実盛に見立てて祭るようになったことからこの名が付いたのだとか、田の虫の名前「さのむし」が訛ったのだとする説もある。
全てが透明感を帯び始めるこの季節、ひと休みして日中の忙しさを忘れ、虫の音とともに秋へとうつろう時間を楽しみたいものである。

(大森圭子)