2022年2月号(第68巻2号)

〇冬将軍が最後の力を振り絞り、寒気だつような2月。それでもどこ吹く風と、梅の蕾はあんなにも小さく柔らかい花びらで冬将軍を押しやり、入れ替わりの合図のように次々にほころび、春の訪れが近いことを告げてくれる。
 まだ風は冷たいけれど、毎夜繰り返される霜柱のせいで、フエルトのようにけば立った地面のうえにも、黄金色を帯びて明るくなった陽ざしが降り注いでいる。春はもうすぐである。
〇2 月1 日はテレビ放送記念日だそうである。1953年のこの日に、NHK 東京放送局がわが国で初めてテレビ放送を開始した。午後2 時から4 時間にわたる放送であったそうだ。「NHK 放送史」 のサイトによると、長寿番組の第1 位は、1953 年に放送を開始した 「のど自慢素人演芸会/NHK のど自慢」 で、続いて大相撲中継、全国高校野球選手権大会中継となっている。10 位までの順位からは漏れているが、朝ドラ開始は1961 年である。
〇現在放映中の朝ドラの影響で、日頃は一人、二人しか居ない 「今川焼」 の売り場に長蛇の列ができていた。「今川焼」 とは関東や福井での呼び名で、京都、大阪を舞台とする朝ドラの中では 「回転焼き」 と呼ばれている。他にも地域によって「 大判焼き」「 二重焼き」 「おやき」 「御座候」 など様々な名があるが、同じ菓子である。
 今川焼は小麦粉を水で溶いたものを円形の型に流し込み、両面から餡を包んで焼いた菓子で、材料も調理法もたい焼きとも同じようだが、皮と餡の分量や形の違いによってこうも違うものかと思うほど、似て非なる味わいである。
 江戸時代中期に、米粉を水で溶いた皮で餡を薄く包んで焼いた金鍔 (当初は丸いものに限られ、刀の鍔と色から銀鍔といった) が現れ、ここに着想を得て今川焼が作られたと言われる。江戸後期には、江戸・神田八丁堀に架けられていた今川橋の近くにこの菓子を売る小店ができたそうで、地名に因んでこの名が付いたという説があり、また、今川義元など今川氏の家紋である 「足利二つ引両 (円の中に二本線)」 にかけてその名が付いたとする説がある。売り場では、焼き鏝で今川焼に二本の線を付けていたが、これは家紋ではなく中身が白あんのマークだそうで…。ほかにも 「今、皮焼ける」 と言ったことをきっかけにしたというユーモラスな説も聞いたことがある。当時、今川橋の辺りは陶磁器の商家が立ち並び大層賑わっていたそうで、明治になると流行菓子として紹介もされており、大変な人気であったことがうかがえる。江戸時代中期よりサトウキビが国内で栽培されるようになって、目覚ましい発展を遂げたという和菓子。植物由来のみの限られた材料で様な工夫を凝らして作られた素晴らしい文化である。
 業務用の大型の鉄板には何十個も型が空いているが、家庭用のプレートやら簡単に作れるレシピやら、ネット上に情報が溢れている。家で過ごす時間が増えたこの頃、今川焼づくりに挑戦して、日本文化に触れてみるのも良いかもしれない。

(大森圭子)