2015年9月号(第61巻9号)

「ぎょう虫検査」考

杏林大学医学部感染症学講座寄生虫学部門 教授
小林 富美惠

「はーい、お尻をだしてごらん」
朝起きると母親がセロファンテープをもって追いかけてくる。「きゃっきゃっ」と笑いながら子供達は逃げ回るが、最後はお尻にペッタン…。多くの人に幼い頃のこんな思い出があるのではないだろうか。小学校3年生以下の児童に義務づけられていた「ぎょう虫検査」が、文部科学省の学校保健安全法の改正に伴い、2015年度限りで学校健診から消えることになった。
ぎょう虫検査は1961年度から学校保健法において実施項目となり、組織的な検査が始まった。東京都予防医学協会年報(2015年版)によれば、1961年度の検査実施件数は70,971件。1971年度には759,557件の検査が実施されたが、学校保健法の改正や学童数の減少などにより検査数は低下した。ぎょう虫寄生率をみると、1961年度では21.7%と高かったが、年を追う毎に減少して1999年度には1%以下となり、2013年度は0.14%であった。
かつての日本国民を脅かしていたのはぎょう虫だけではなく、例えば1949年には国民の70%が様々な寄生虫卵を保有していた。しかし、糞便内の寄生虫卵陽性率も1967年度には1%を切り、2001年度には0.00%を示した。そして、この間に、日本はWHO(世界保健機関)が対策促進重要寄生虫疾患としている寄生虫疾患のうち、マラリアと日本住血吸虫の撲滅にも成功している。
こうした状況は、むろん、喜ばしいことであるが、怖いのは、この“清潔な”国に住まう私達が寄生虫疾患の恐ろしさに疎くなってしまっていることである。目を世界に転ずれば、10億人以上の人々が回虫症、鞭虫症、鉤虫症、住血吸虫症、フィラリア症などの寄生虫疾患に苦しみ、2億人がマラリアに感染し、毎年70万人がマラリア原虫に命を奪われている。
2013年度の日本人の海外渡航者数は1747万人、訪日外国人旅行者数も1000万人を突破した。従って、世界の寄生虫事情は決して対岸の火事ではない。寄生虫は、海を越えてやってくるのである。ところが、日本では医学部がある大学のうち10%の大学に寄生虫学担当教員がおらず、担当教授不在の大学に至っては37%を占める(母数62大学)(日本寄生虫学会教育委員会:「医学部における寄生虫学教育の現況調査報告」,2015年)。つまり、日本には寄生虫疾患についてきちんと学ぶ機会を与えられなかった医師が増えつつあるのである。放置されれば死の転帰をとる熱帯熱マラリア原虫に感染して帰国。寄生虫疾患に詳しい開発途上国で受診していれば助かったはずが、日本に帰国したが故に…、ということが、今後、起こりうるのではないか。
来年度からぎょう虫検査がなくなると聞いて、いろいろなことが脳裏をよぎった。