2010年2月号(第56巻2号)

一葉の至福

新潟大学名誉教授 屋形 稔

机上に一葉の写真がある。半世紀以上の昔、新潟の地を去られた頃の恩師鳥飼龍生先生が黒板を背にした肖像で、私はこの写真を朝夕仰ぎながら生きてきたことになる。
師はご父君が教育者であられたことで戦前に朝鮮とよばれた国の首都の旧制中学(5年制)に学び、4年から日本の一高に入りさらにトップクラスで東大を卒業された。その後臨床以外に野心のない師を田舎の病院勤務からわが大学の内科教授選に推薦された当時の東大の柿沼という教授とわが大学の伊藤という名物学部長にその後私は永く感謝することになった。生涯を通じての師との邂逅のいとぐちを作ってくれたからである。
若冠40才で着任された教授は、仕事にはやる私達に研究より何より患者本位の臨床を叩きこまれた。朝夕のカルテ検討、ベッドサイドのやりとりの中で徐々に臨床の重さを味わわされた。師の学内外でのCPCや診断力の卓抜さはあまり類がなく、当時新分野であった内分泌研究に方向を定められてからは世界をリードする症例報告や研究発表も相次いだ。
九州の五木という片田舎の出身のせいか少しもおごらぬ師の人格のせいで着任数年後の内科入局者の希望は圧倒的な数に達した。しかし私の当時の身にしみる記憶は症例検討で教授室によばれた時の1対1のやりとりで、師の卓抜した頭脳と表現の豊かさは、半世紀を過ぎた今でも冷汗三斗の思いで懐かしく蘇える。
幸せというものは永くは続かないもので、着任わずか8年で師はにっくき隣国仙台にさらわれてしまうことになった。師は離任の怱忙の中で不肖の弟子をあわれんだのか米国財団を通じて私のカリフォルニア大留学の道を開いて下さった。そのためこれも得難い副腎研究の第一人者P.H.Forsham教授と師弟の縁を結ぶことができた。そして爾後40年仙台で世を去られる迄彼地から常にあたたかい指導をたまわったのである。
師は没後数年に後を追われた奥様と共に仙台市内の広大な禅寺の一隅に静かに眠っておられる。そしてわが机上に鎮座する師の一葉は常にわが人生を照らす永遠の光である。