2012年1月号(第58巻1号)

癒しの風景画

この度、Modern Mediaの表紙に私の絵を載せていただくことになり、望外の幸せです。
絵は、子供の頃から好きで、小学生の頃は絵画教室にも通っていました。高校~大学の頃に第二のブームが来て、人物の油絵で二科展にも入選しました。その後パソコン時代になってからは絵から長く遠ざかっていましたが、中年を迎える頃、ふとしたきっかけからリアル絵画の道に踏み込んでしまい、再び絵に熱中する人生が始まりました。
コンテストや公募展に出しまくり、気がつけば入選や受賞は60回を超えていますが、これもちょっと虚しくなっており、最近は絞って出品するようにしています。
最初の1年は、こうして描き貯めた多くの風景画の中から季節に合った12枚の絵を載せていきます。
4年前から、古巣二科展の別部門である、デザイン部に出品しています。最初の年から入選し、2年目には、大賞もいただきました。デザインということで、平面にとらわれずに、部品を組み合わせた工作のような作品や、少し立体的な作品も可能なので、とたんに作品の幅が広がりました。自由な発想を実現するのが楽しくて、今一番はまっているジャンルです。2年目はこうした作品の中から12枚を選んでいく予定です。半立体作品が表紙写真でうまく表現できるか楽しみです。

冬の山中湖 (山梨県)

410mm×320mm

〇リアル絵画について
リアル絵画とは、写真のように詳細に描いた絵画のことです。絵を展示していると、見る人は一様に「うわー!写真みたい」と感想を述べていきます。でも、リアル絵画は実は写真以上なのです。写真は人間の目に比べるとダイナミックレンジが狭く、暗いところは黒く、明るい所は白一色に表現してしまいます。しかし、人間の目は暗いところを見れば、自動的に暗順応することで、暗い中に色々な色や形を読み取ります。それを絵に描くことでリアル絵画は写真以上にリアルを表現しています。様々な図鑑の図が、写真よりも描いた図の方が細かいところまでわかるということからも明らかです。リアル絵画を見たら、「写真よりリアル」と評していただけると嬉しいです。

〇今月の絵:冬の山中湖
さて、今回は新年号で、おめでたいお正月ということで、富士山の絵を選びました。富士山は沢山描いているかと思ったのですが、単純な形だけにかえって難しさがあり、数枚しかありませんでした。
厳寒の時期に雪の富士山と湖を見たいと、山中湖畔に泊まったのですが、宿泊客は我々だけで寂しい限りでした。暖房を最大にしても部屋は寒く、震えながら寝ました。翌朝は、夜明けの写真を撮ろうと、湖のほとりで太陽が昇るのを待ちましたが、その寒さといったらなかったです。30分で感覚がなくなってきて、1時間で宿へ逃げ帰りました。でも、良い写真が撮れて、その中から描いたのがこの絵です。手前側は凍っていますが、逆さ富士のあたりは溶けていて、富士がきれいに映っていました。この絵はH21年1月、第1回ほっぷすてっぷ展に入選しました。
写真を撮っている時、時々ドーンという低い音が響きます。何だろうと富士を見ると、その度に富士の山腹に土煙が上がります。自衛隊の実弾射撃訓練です。霊峰富士のふもとで、こんなことをしているようでは、世界遺産登録などは遠い話ではないかと思いました。
多摩川の魚たち:http://homepage3.nifty.com/tamafish/
絵画のギャラリー:http://r-kaiga.suz.cc/

絵とエッセイ 鈴木 孝成

昭和28年1月12日
信州松本にて生を受ける

<職歴>
昭和57年…東京医科大学医学部卒業、放射線医学教室大学院に入学
昭和61年…東京医科大学放射線医学教室助手
平成2年…米国アリゾナ大学メディカルセンター核医学に一年間留学
平成4年…東京医科大学放射線医学教室講師
平成7年…東京医科大学退職、町田市にて、中町クリニックを開業。MRIを導入して地域の画像センターとしての機能を担っていた。
平成23年…中町クリニック閉院。

<絵の略歴>
幼い頃から絵や工作に熱中していた少年だったそうである。小学生の頃は、松本の月草絵画教室に通っていた。中学になって押し付けがましい美術の授業に嫌気がさして、物理部で飛行機ばかりやっていた。高校では、美術室入りびたりの生活となった。主に人物の油絵を描いていて、二科展絵画部に入選。大学は1年浪人後、飛行機好きが高じて東海大学航空宇宙学科に入学。その後も数年は夏休みに高校の美術部へお邪魔して二科展の油絵を製作し、2度目の二科展入選を果たす。その頃にPC-8001が発売されてパソコンブームとなり、ゲーム開発に熱中して絵の事はすっかり忘れる。芸夢狂人のペンネームで、雑誌に記事を載せたり、九十九電気にゲームソフトを卸したり大忙しであった。
東海大学卒業の頃はすっかり不況のまっただなか、希望する航空関係の企業に勤められる可能性も無く、東京医大を受験したところ、奇跡的に入学できて、ここからまた6年間の学生生活が始まった。
東京医大卒業後結婚し、放射線科医局へ入局後は忙しい新米医者の生活になり、絵を描くのは、子供とスケッチをする程度であった。
そして、ふと気づくと、50歳も過ぎ中年真っ只中であった。ひょんなきっかけからリアルな風景画の世界にはまり、現在に至っている。