2026年3月号(第72巻3号)

二人のドクター(続)

熊本大学 名誉教授
岡部 紘明

 前回の二人のドクターで医療専門職の紹介をした。来年から専門医制度の導入が行われる。二人のドクターの続きとしては、中途半端になるが、細分化された専門医は如何に考えるか。最近の医師は、医学的所見によって客観的に判断できる、器質的異常を「疾患」、疾患に伴って主観的に身体や生活の不具合を「病」とするようになったようだ。人間の尊厳と人権を基盤とした、バイオエシックス運動は、「患者中心の医療」、「知る権利」、「インフォームド・コンセント」、「自己決定権」など、患者・家族同意のもとに治療を始めるようだ。しかし、交通事故や救命救急手術で回復の見込みがなく終末期状態の場合に治療を引き受けた時、医療専門技術者として、治療や手術は成功でした、しかし副作用が残りました、社会復帰は困難、又は意識不明のまま、自己決定権を云々しても本人は意識なく家族との抗争になる。ここでリビング・ウイルの必要性もあるが普及度は低い。専門医の責任は重く、診断と治療はもとより、治療技術や薬剤の使用法などいろいろ対応しなければならない。患者に自己決定を迫り、治療が良好な結果が得られない時はそれを患者の自己責任としても、医療における意思決定者は医師である。患者にとって病という概念でとらえられる部分が重要で、先端医療技術を背景に事故や急性疾患・傷害の後遺症など、例えば、ガン治療を中止して疼痛緩和だけ行う場合、尊厳をもって生きたいという障碍者や難病患者にとって、治療を断念された段階から、スピリチュアルな苦痛を持ち始めます。生命を預け頼りにしてた医師は単なる医療専門技術者である。世界保健機関は、身体的苦痛や精神的な苦痛は、医療者が主にケアに当たる。社会的な苦痛については、ソーシャルワーカーなどが相談に乗る。しかし、死の恐怖や不安、生きる意味の喪失感や罪責感などのスピリチュアルな苦痛を癒すのは、公共性のある立場からの専門的な心のケアを行う事を認めている。スピリチュアルな治療はエジプト、オリエント世界では一般的に行われていたようだが、ヒポクラテス以前と以後との間の過渡的性格を持つとも考えられている。疾病の原因を神々や霊的存在に帰し、そのような疾病の治療者であると自称した人々が存在していた。患者にとって「病」という概念でとらえられる部分が重要な意味を持つ。医療専門職には「疾患」だけでなく、「病」も対象にした医療が求められている。江戸時代では医は仁術、医師は自分の利益を帰り見ることなく、患者の健康に資するべきであるという心構えがあり、患者は医師へのそのような役割を期待していた。かつては、専門的知識と経験を有する医療専門職こそ、病気で苦しむ患者の最善の利益となる治療法を判断し、実際の治療にあたる事が出来るということが、医の倫理として医療職にも患者にも信じられてきた。最近は救急救命医学から終末期医療にいたる別の「看取りの医学」が必要となってきたが、救命・延命至上主義から過剰医療となって居る。
一方では回復の見込みのない、死が間近い終末期や、在宅医療で期待される社会的ケアーは、患者に生きる力を取り戻す援助している。難病で最先端医療を待ち侘びている患者や、新しい治療に夢を持って生きている、終末期の患者やそれを看取る人々の心を温めることになる。「患者を看取り、死にゆく人の力になる事も医療専門職の義務」。「臨床宗教師」は、被災地や医療機関、福祉施設などで心のケアに必要となっている。欧米のチャプレンに対応するものとして考えられたようだ。布教や伝道を目的とするのではなく、人生の経験をいかして、苦悩や悲嘆を抱える方々に寄り添う、さまざまな信仰を持つ人々の集団に期待したい。その中には医師が含くまれていても良いのではないか。高齢化社会とはいえ、何れ我々は、死を迎える。長期療養、リハビリ、終末期医療、在宅医療、これらは介護に密接に関連しているが、介護に負担なく、残り僅かな人生を楽しく過ごして貰えれば。