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2025年12月号(第71巻12号)
解剖学教科書の良否は解剖図によって決まるといっても過言ではない。たとえ記述がどんなにすぐれていてもそれに見合った図版が伴っていなければ解剖学書としては失格である。これは学生時代に受けた解剖学の授業を通して得た私自身の実感でもある。
その記憶が頭に残っていたせいか、10年余り前に東大図書館で安永3年(1774年)刊行の解体新書初版本を直接手に取る幸運に恵まれた時に先ず目を止めたのは解剖図であった。私が思わず目を見張ったのは、どの図版にも陰影法や遠近法を用いて立体感を出した西洋画風の描き方が共通してみられたからであり、これらの図版が日本人画家の手になるとは到底信じられなかった。その画家が小田野直武であることは、居合わせた図書館の学芸員の方に教えていて頂いた。確かに解体新書の跋文(あとがき)には東羽藩 小田野直武の名で「我が友人杉田玄白訳すところの解体新書成る。予をして之が図を写さしむ…」と記されている。この時から私は直武に少なからず興味をひかれるようになった。
小田野直武は、1749年に角館で生れた秋田佐竹藩の藩士である。彼が25 歳の年の夏、遇々秋田藩に招かれていた平賀源内と出会って知己を得たことがきっかけで、その年の暮に直武が江戸に出てからはしきりに源内宅に出入りするようになった。源内のもとで当時 蘭画とよばれた西洋画の勉強を始めた直武は、やがて源内の紹介で杉田玄白と知り合うようになり、その縁で解体新書の図譜を描く仕事を引き受けたと考えられる。
日本における西洋画は司馬江漢にはじまるというのが定説であるが、それは誤りであって江漢が直武に蘭画を習ったというのが真実らしく、それならば直武こそが日本の洋画の嚆矢ということになる。西洋絵画の画法に習熟した直武は、秋田藩主佐竹義敦(曙山)をはじめ藩の重職らに洋画の指導を行った結果、秋田蘭画派とよばれる絵画の一派が形成された。惜しくも直武は1780年に31 歳の短い生涯を閉じ、彼の西洋風絵画の画業生活は6年足らずで終りを告げた。日本の洋画の先駆者としての直武の名があまり知られていないのはその短命のためであろう。しかし彼が主導した秋田蘭画の影響が明治初期の洋画家にまで及んだことは確かなようである。
今に残る直武の絵画はそれほど多くはない。そのなかの代表的作品としては「不忍池図」(重文)があげられる。この作品からは日本画と西洋画各々の特徴を巧みに融合させた新しいスタイルの画法が見てとれる。